世の中には色々なバイトがあります。アルバイトニュースに載っているような健全なバイトがある一方、ちょっと人には話せない内容のバイトも存在するのです。
特に医者であるということで世間には知られていない特殊なバイトを経験することができました。
あなたの知らない病院の地下のミステリーゾーンにお連れ致しましょう。
医学部の学生は専門課程に入ると解剖実習という関門が待っています。数人のグループで1体のご遺体を半年ほどかけて解剖して行きます。1学年の学生数は100名ほどですので5人のグループとしても1学年に20体のご遺体が必要です。
さて、感の良い方はもうお察しが付いたかも知れません。
日が長くなってきたとは言え、この季節の7時はすっかり日も落ち夕闇が迫っていました。蛍光灯の白々とした明かりに照らされひっそりしたリノリュームの長い廊下を私たちは解剖学教室のA講師の研究室に向かいました。すでに他の職員は帰宅してしまったようで廊下の両側に並ぶ研究室には人の気配もなく、自分たちの足音以外は何かの機械が動くブーンという低い音だけが闇の向こうから聞こえるのみです。
数日前、うちの教室の講師から「良いバイトがあるんだけど」と呼び止められました。一般の学生や職員が帰った後の夜中の仕事になるみたいです。「あさっては仕事を早めに切り上げて夕飯を食ってから夜7時に俺と同期の解剖のA講師の研究室に行きなさい。1人では寂しいだろうから、後輩のBも連れて行きなさい」だそうです。寂しいバイトなのでしょうか。
今考えると講師の少し薄笑いを浮かべた顔からして何か怪しげな雰囲気が漂っていました。そのときに止めておけばよかったのですが結構なバイト料に、つい「わかりました。」と答えてしまいました。
「おお、待ってたよ。」何か書き物をしていたらしいA講師は、そぐに手を止めて明るく私たちを招き入れてくれました。「実はね、この前まで勤めていた助手が急に辞めることになって困っていたんだ。内容は聞いてるよね。」聞いていないと答えると大笑いしながら「まあいい、ついてきなさい。そこに白衣とマスクがある。」
研究棟地下の関係者以外立ち入り禁止の部屋の、さらに奥の厳重に施錠されたスチールのドアの向こうにその施設はありました。地下に降りて行くに従ってホルマリンの臭いが徐々にきつくなっていたのですが、そのおおもとはこの部屋にあったようです。ドアの横のスイッチを入れると瞬きながら一斉に蛍光灯が点灯しました。大きなその部屋はお風呂場のようにタイル張りで、中央に木の板でふたをされた、これまた銭湯のように大きな風呂桶がありました。
「浮いてきたヤツを時々沈めてね。手袋はそこにあるから。」
噂には聞いていましたが、本当にこんな仕事があるとは驚きました。
解剖実習に使用するご遺体は「献体」と言って死後自分の体を医学の発展のために役立ててもらうため病院などに寄付するように遺言されたご遺体です(献血の全身版ですね)。
ご遺体はホルマリンのプールに浸されて保存されますが、一部でもホルマリンから出たままになっているとその部分が腐敗してしまいます。時々確認してホルマリンの中に沈めてあげる仕事があるという訳です。
「浮いてきたヤツを時々沈めてね。手袋はそこにあるから。」A講師はこともなげに木のふたを開けながら言いました。
おそるおそる風呂桶の中をのぞくと、ホルマリンの強い刺激臭がツーンと鼻につくと同時に何体ものご遺体がおなかや背中を見せてプカプカと浮かんでいる今までに見たことのない恐ろしい光景が目に飛び込んできました。
よく腰を抜かすヤツだと思われるかも知れませんが、この時も腰からは80%程度の力が抜けました。
「え゛ー、手でですか?」
「慣れないうちは、そこにある棒を使ってもいいからね。朝の7時に職員が出勤するから、それまで交代で突っついておいて。あんまり強く突っつくと壊れるからね。仮眠するなら隣の部屋でね。」
棒で突っついたりしてバチ関係などは当たらないのでしょうか。突っついて壊れたら中から何物かが出てきたりしないのでしょうか。本当に完全に亡くなっているのでしょうか。こんな部屋の隣で仮眠など出来るのでしょうか。仮に寝たとして金縛りなどにはあわないのでしょうか。
呆然としている私たちを残して「じゃ、頼むね。」A講師は明るく言い残すと部屋を出て行ってしまいました。
しばらく今いる状況に順応出来ずにいました。
医者だからと言って、ご遺体などと親しい関係を持ったことなどありません。祖母が亡くなったときに棺桶の窓ごしに見たくらいです。確かに実習ではご遺体の解剖をしましたが、そのときは真っ昼間の100人も仲間のいる解剖室です。
「先輩、鍵しまってますよおお」ほとんど出口近くまで後ずさりしていた後輩が急に大声で叫んだので、辛うじて残っていた残り20%の腰の力も完全に脱力しまいました。
「はあ?ウソでしょ。」
後輩はドアノブをガチャガチャやりながら半泣き状態です。先ほど出て行く時、A講師が習慣的に施錠してしまったに違いありません。
話が怖くなってきましたので、ちょっと話題を変えましょう。
都市伝説というのをご存じでしょうか。マクドナルドのハンバーガーにはミミズが使われているとか、ピアスをしたら失明したとか、メンソールタバコはインポになるといった類のあれですね。
このような非合理的な、しかし説得力のある(ように見える)解説付きのお話を世間は大好きです。
ハンバーガーにするには大量の肉が必要ですが、食用のミミズで賄うとすると大変なコスト高になってしまいます。耳たぶには視神経などありませんので白い糸が出ることも失明することもありません。メンソールじゃなくタバコそのものに害があります。
記憶に新しいところでは人面犬、口裂け女のように都市伝説は徐々に形を変えながら、さも本当らしく流布して行きます。当然医学部のような閉鎖的な社会の噂もパワーアップして語られることの多いカテゴリーです。
解剖実習のとき、ご遺体の耳を切り取って壁に付け、「壁に耳あり」などとふざけていた医学生が退学処分になったという話を聞いたことがあります。
実はこの話はどこの医学部でも流布している有名な都市伝説の一つで、「ご遺体に対する感謝の気持ちを忘れず尊厳な態度で実習しなさい」という戒めのたとえ話で、実際退学処分があったという事実はありません。
さて、感の良い方はもうお察しかも知れません。
新人医師バイトシリーズ(その4)解剖教室のお仕事という話は、まったくのフィクションです。都市伝説に多少の脚色を施して書いた、真っ赤な嘘八百です。
死体のお世話なんて言うアルバイトは存在しません。では、検証してみましょう。
1.ホルマリンプール
何体ものご遺体を保存するのに巨大なホルマリンのプールを作るのはナンセンスです。きっちりの大きさの桶で1体1体保存した方がよっぽど経済的です。またホルマリンは揮発性が強いのでプールのような構造ではすぐに蒸発してしまいます。そのような部屋に入ったら命が危険です。
実際のご遺体は血液を抜き、防腐剤などを注入した上でホルマリンを浸した布で何重にもくるんで保存します。
2.バイト
第一こんな単純な作業で高給をいただける訳もありません。医学部の基礎の研究室は貧乏所帯ですので、バイトを雇うくらいなら重石でもつけて沈めます。
3.高給
いくら高給でも一晩中複数のご遺体とお付き合いするくらいなら、老婆に侵略を許した方がまだましです。ご遺体に失礼があれば今すぐにでも祟られそうですが、老婆は生き霊にでもならない限り化けて出るとしてももうちょっと先です。おとなしく3万円もらって当直しなさい。
以上のような検証結果より嘘っぱちということがおわかりになったでしょうか。恐ろしい結末を期待していた方、ごめんなさい。